ずれ
2005年5月30日僕がものを云うのが困難だったのは、自分の感覚が信じられないということと、自分が痛い!と感じた時に「痛い!」と言ったその声を、煩く思う人がいるのではないかと思っていたからです。
それでは、今はそれが気になっていないか?と云えばそんな事はなく、でも僕は自分が「痛い!」と思っている事を信じてあげようと思ったのと、僕が「痛い!」と言った時に「そうだね。痛いね〜」と言ってくれる人がいる事に気づいたのと、その人が、「痛い時は、痛いんだって言っていいんだよ」と教えてくれたので、痛い時には「痛い!」と言うことにしました。
でも、僕が「痛い!」と言った時に煩いと思う人がいるかもしれない事を僕は識(し)っています。
これを識っているという事は、実は大事な事のようです。
「痛い!」と思って「痛い!」という人とそれを「煩い」と思う人がいたとして、どちらかがどちらかに「そう思うな。」と言うことはできません。実際にそう思っているんだから。
けれど、現実には自分が相手の「痛い!」と言った声を煩いから止めさせたいと思ったりします。かく云う僕もそうです。
そして、止めさせるために何等かの行動を起こしたりします。これは大げさにいえば、復讐です。
誰でもこういう気持ちは、持つものなのでしょう。
でも、自分がこういう気持ちを持つかもしれないという事を考えなかったり、「不快な思いをしたのだから、止めさせるために行動するのが当然だ!」と思うのと、どうなるのでしょうか。
さっきも云いましたが、誰でも持ってしまう可能性のある気持ちです。
自分が止めて欲しいと思っている事でも、相手にとっては、必要なことかもしれません。
そういう相手の立場というのを思いやらないで行動したらどうでしょう。
そして、止めさせるための行動というのが、エスカレートしていったらどうなるでしょう。
そうやって、自分の不快な気持ちを取り除くために行動しはじめた事が、自分と相手も含めたまわりの人々をどんどん不快にしていってしまうかもしれません。
けれども、自分が不快な事を不快だと感じたり、「不快である。」と言うことを止める必要はないと、僕は思います。
そうしたら、僕たちには何ができるのでしょうか?
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2002年9月5日
それでは、今はそれが気になっていないか?と云えばそんな事はなく、でも僕は自分が「痛い!」と思っている事を信じてあげようと思ったのと、僕が「痛い!」と言った時に「そうだね。痛いね〜」と言ってくれる人がいる事に気づいたのと、その人が、「痛い時は、痛いんだって言っていいんだよ」と教えてくれたので、痛い時には「痛い!」と言うことにしました。
でも、僕が「痛い!」と言った時に煩いと思う人がいるかもしれない事を僕は識(し)っています。
これを識っているという事は、実は大事な事のようです。
「痛い!」と思って「痛い!」という人とそれを「煩い」と思う人がいたとして、どちらかがどちらかに「そう思うな。」と言うことはできません。実際にそう思っているんだから。
けれど、現実には自分が相手の「痛い!」と言った声を煩いから止めさせたいと思ったりします。かく云う僕もそうです。
そして、止めさせるために何等かの行動を起こしたりします。これは大げさにいえば、復讐です。
誰でもこういう気持ちは、持つものなのでしょう。
でも、自分がこういう気持ちを持つかもしれないという事を考えなかったり、「不快な思いをしたのだから、止めさせるために行動するのが当然だ!」と思うのと、どうなるのでしょうか。
さっきも云いましたが、誰でも持ってしまう可能性のある気持ちです。
自分が止めて欲しいと思っている事でも、相手にとっては、必要なことかもしれません。
そういう相手の立場というのを思いやらないで行動したらどうでしょう。
そして、止めさせるための行動というのが、エスカレートしていったらどうなるでしょう。
そうやって、自分の不快な気持ちを取り除くために行動しはじめた事が、自分と相手も含めたまわりの人々をどんどん不快にしていってしまうかもしれません。
けれども、自分が不快な事を不快だと感じたり、「不快である。」と言うことを止める必要はないと、僕は思います。
そうしたら、僕たちには何ができるのでしょうか?
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2002年9月5日
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